島田虎之助を巡る人々

  •  男谷信友、大石進とならび幕末の三剣士といわれた。直心影流島田派を名乗った。虎之助は剣術以外に儒教や禅を好んで学び、「其れ剣は心なり。心正しからざれば、剣又正しからず。すべからく剣を学ばんと欲する者は、まず心より学べ」という言葉が知られている。

広瀬淡窓

  • 広瀬淡窓広瀬 淡窓(ひろせ たんそう、天明2年4月11日(1782年5月22日) - 安政3年11月1日(1856年11月28日))は、江戸時代の儒学者で、教育者、漢詩人でもあった。
    豊後国日田の人。淡窓は号。通称は寅之助のちに求馬(よみはモトメ)。諱は建。字は廉卿あるいは子基。別号に青渓など。
    末弟に広瀬旭荘、弟広瀬久兵衛の子孫に、日田市長、衆議院議員だった広瀬正雄、その子息の一人広瀬勝貞は現大分県知事。

    15歳ごろには藩内では相手になる者がいなくなるほどに剣術が上達。16歳で九州一円を武者修行して名声をあげる。このころ、日田の広瀬淡窓や筑前の高僧仙豪`梵のもとで学問を修めたという。

仙豪`梵

  • 仙豪`梵仙豪`梵(せんがい ぎぼん、寛延3年(1750年) - 天保8年(1837年))は江戸時代の臨済宗古月派の禅僧、画家。禅味溢れる絵画で知られる。

    美濃国武儀郡で生まれ、月船禅彗に師事。博多の聖福寺の住持を二十年務め、多くの洒脱・飄逸な絵画(禅画)を残す。東京の出光美術館は仙高フ絵のコレクションで知られている。

    15歳ごろには藩内では相手になる者がいなくなるほどに剣術が上達。16歳で九州一円を武者修行して名声をあげる。このころ、日田の広瀬淡窓や筑前の高僧仙豪`梵のもとで学問を修めたという。

勝海舟

  • 勝海舟勝 海舟 / 勝 安芳(かつ かいしゅう / かつ やすよし、文政6年1月30日(1823年3月12日−明治32年(1899年)1月21日 )は、江戸時代末期の武士(幕臣)、明治初期の政治家。位階勲等は正二位勲一等伯爵。山岡鉄舟、高橋泥舟と共に「幕末の三舟」と呼ばれる。
    幼名および通称は麟太郎(りんたろう)。諱は義邦 (よしくに)、明治維新後改名して安芳。これは幕末に武家官位である「安房守」を名乗ったことから勝 安房(かつ あわ)として知られていたため、維新後は「安房」を避けて同音(あん?ほう)の「安芳」に代えたもの。勝本人は「アホウ」とも読めると言っている。海舟は号で、佐久間象山直筆の書、「海舟書屋」からとったものである。海舟という号は元は誰のものであったかは分からないという。父は旗本小普請組(41石)の勝小吉、母は信。幕末の剣客・男谷信友は従兄弟に当たる。家紋は丸に剣花菱。
    10代の頃から島田虎之助に入門し剣術・禅を学び直心影流剣術の免許皆伝となる。16歳で家督を継ぎ弘化2年(1845年)から永井青崖に蘭学を学び、赤坂田町に私塾「氷解塾」を開く。安政の改革で才能を見出され、長崎海軍伝習所に入所。万延元年(1860年)には咸臨丸で渡米し、帰国後軍艦奉行並となり神戸海軍操練所を開設。戊辰戦争時には、幕府軍の軍事総裁となり、徹底抗戦を主張する小栗忠順に対し、早期停戦と江戸城無血開城を主張し実現。明治維新後は、参議、海軍卿、その後伯爵、枢密顧問官となり政府の日清戦争に終始反対した。
    李鴻章を始めとする清国の政治家を高く評価し、明治6年(1873年)には不和だった福澤諭吉らの明六社へ参加、興亜会(亜細亜協会)を支援。また足尾銅山鉱毒事件の田中正造とも交友があり、同事件では政府の対応を厳しく批判するなど多くの社会事業に携わり、哲学館(現:東洋大学)や専修学校(現:専修大学)の繁栄にも尽力し、専修学校に「律は甲乙の科を増し、以て澆俗を正す。礼は升降の制を崇め、以て頽風を極(と)む」という有名な言葉を贈って激励・鼓舞した。