『月信』1月号
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 1月号 No.8  3に言えば「社会奉仕」の範疇で理解されるべき要素が入り込んだために、いよいよ分かりづらくなりました。さらに、ここに「職業奉仕の本質を歪曲する」とする反発・反対論が加わり、これが一種の神学論争にも映るために、ロータリー初心者にはいよいよ難解となり、「職業奉仕アレルギー」さえ起こしてしまう、そういう悪循環に陥りがちです。これは、ロータリーを大きく俯瞰せずに「職業奉仕」の概念だけを切り離し、「職業奉仕とは何か」という問いを立てて、狭く、精密に「概念だけ」を掘り下げようとすることに原因があるのではないかと感じています。正に「木を見て森を見ず」。一度、大きな視点から俯瞰するのがよいのではないかと考えるゆえんです。はないはずですが、ロータリーは伝統的に経済的活動(職業活動)を通じて行う社会的貢献に特に大きな価値を見出してきました。これが「職業奉仕」です。 このように職業を通じた貢献が特に重視されることには様々な理由が考えられますが、草創・発展期のロータリーに集い、その活動を支えた人びとが、アメリカ合衆国や先進諸国の中産階級であり、その経済発展を支える職業人(経済人)であったことと無縁ではないはずです。この中産階級は社会科の教科書では「ブルジョワジー」とか「アッパーミドルクラス(中上流階級)」などという言葉でも説明され、近代資本主義経済の成立発展と切り離せないポジションにある人たちだと説明されます。そうしてみると、ロータリーの中に宿る「高い志操を備えた独立自尊の個人」という考え方は、近代社会において政治経済を支えた教養ある「公衆(≠大衆)」という考え方に非常に近いものであることも目を引きます。すると、ロータリーは、近代市民社会や資本主義経済活動と切り離せないものであることになり、それならば経済活動=職業が特に重視されたことも納得できることでしょう。 しばしばなされる「商道徳の退廃した1905年のシカゴ」という説明も、社会科の教科書の説明に置き換えれば、自由市場における「神の見えざる手」が必ずしも効果的に働かず、市場秩序の喪失や独占資本の弊害が克服すべき課題として自覚される時代に移りつつあったこととパラレルに説明できるかもしれません。ロータリーは、経営倫理の自覚を通じて資本主義経済を内側から適正化しようとする運動であったと言い換えることもでき、そうであれば職業活動を通じた社会と公益への貢献こそロータリーのなすべきことの核心であると理解し、これを一等高く奉じたこともよく理ロータリーの俯瞰—個人奉仕原則と例会中心主義 古典的なロータリーの考え方を図式化したモデルとして捉えると、その最も核心となるところは、「個人奉仕原則(I serve)」とこれと表裏をなす「例会中心主義」であると理解してよいでしょう。高い志操を備えた独立自尊の「個人」が自発的に例会に集い、例会での研鑽(≒親睦)を通じて自己を向上させ、個人が各々に自己の社会活動の付加価値を高め、社会や公益に対してよりよく貢献できるようにすること、これが古典的なロータリーモデルであり、その考え方の核心だろうと思います。 そして、個人が行う社会活動は大きく分けて、職業として行う経済的活動とそれ以外の社会生活上の活動に区別できます。いずれも個人の活動なので、両者の間には本質的に貴賤優劣の区別はなく、どちらを通じて行う社会や公益に対する貢献にも優劣の区別

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